政略結婚という出発点——天文17年(1548年)の縁組
天文17年(1548年)、尾張の戦国大名・織田信秀は、美濃を支配する斎藤道三との和睦を成立させるために一つの縁組を進めた。信秀の嫡男・信長(当時15歳)と、道三の娘・帰蝶との婚姻である。帰蝶は後に「濃姫」の名で知られることになるが、この呼称は「濃州(美濃)の姫君」に由来する通称であり、実名については諸説あって定まっていない。
政略結婚は戦国時代における外交手段の一つであり、婚姻そのものに当事者の意思が介在する余地は少なかった。信長にとっても帰蝶にとっても、この縁談は父親たちの政治的判断が先行するものであった。しかし結果として、この婚姻は単なる外交上の取り決めを超えた意味を持つことになる。
帰蝶の父・斎藤道三は「蝮の道三」と呼ばれた謀略家であり、油売りの商人から美濃一国を掌握したとされる人物である(ただし近年の研究では、道三の立身出世は父・長井新左衛門尉との二代にわたる事業であったとする説が有力視されている)。その道三の血を引く帰蝶が、どのような人物として育ったかを示す直接の史料は残されていない。
婚姻当時の信長は、尾張国内でさえ「うつけ者」「大うつけ」と評されていた。具体的には、着物の袖を切り落とし、瓢箪を腰にぶらさげ、路上で食いながら歩くという振る舞いが諸記録に残されている。『信長公記』(太田牛一著)はこの時期の信長について、「もっとも人払い(礼儀作法を意に介さない)」な人物として描写している。
この「うつけ」ぶりが演技であったか、本質的な性格であったかについては、研究者の間でも見解が分かれる。ただし婚姻後の信長が、尾張統一から始まり桶狭間の戦い、上洛、そして「天下布武」へと驚異的な速度で成長を遂げた事実は動かない。
帰蝶の目に映った夫・信長の実像はどのようなものであったか。これを示す一次史料は現存しない。後世の創作や伝承において、帰蝶は「夫の才を最初に見抜いた女性」として描かれることが多いが、それが史実に基づくものかどうかは慎重に判断する必要がある。
弘治元年(1555年)、斎藤道三と信長の間で、長良川畔において直接の会見が行われたと伝えられる。この会見については『信長公記』をはじめとする複数の記録に言及がある。
道三はこの会見で信長の姿を目の当たりにし、「自分の子どもたちは信長の門前に馬を繋ぐことになるだろう」と評したという。「蝮」と恐れられた謀略家が、世間の評判に反して信長の本質を見抜いた逸話として広く知られている。
この逸話の信憑性については議論があるが、仮に道三がこうした評価を下したとすれば、その娘である帰蝶もまた、父と同じ眼力で夫を見ていた可能性は高い。少なくとも、道三という人物を父に持つことで帰蝶が戦国の政治的現実について鋭い認識を持っていたと考えることは、あながち根拠のない推測ではない。