戦国時代に至るまで、日本の大寺社は単なる宗教施設ではなかった。大寺社は荘園支配を通じた経済力、僧兵と呼ばれる武装集団、そして朝廷・幕府との政治的紐帯を併せ持つ複合的権力体であった。
延暦寺(東塔)を擁する比叡山は、延暦七年(788年)に最澄が開創して以来、天台宗の総本山として日本仏教の頂点に君臨してきた。平安時代の公家社会は延暦寺の神輿(みこし)を担いだ強訴を極度に恐れ、叡山の要求を拒絶することは事実上不可能であった。『今昔物語集』をはじめとする諸史料は「山法師」の暴威を繰り返し記録している。
延暦寺は経済的にも強大であった。各地に広大な荘園を持ち、坂本の馬借(ばしゃく)・日吉馬借を傘下に置いて琵琶湖周辺の流通を支配。中世の流通経済において延暦寺は事実上の関所権を行使していた。
浄土真宗本願寺派(一向宗)の信徒による一向一揆は、室町中期以降に各地で在地勢力と激突した。加賀国(現石川県)では文明六年(1474年)以降に守護・富樫氏が一揆勢に討たれ、加賀は百年近くにわたって「百姓の持ちたる国」(『実悟記拾遺』)となった。本願寺は単なる宗教団体ではなく、国一つを実力支配できる軍事勢力であった。
元亀元年(1570年)八月、織田信長は本願寺第十一世法主・顕如(けんにょ)(1543〜1592年)に対し、大坂(現大阪市)の石山本願寺が占拠する土地の明け渡しを求める書状を送った。顕如はこれを拒絶し、同年九月に信長打倒の檄を全国の門徒に発した。こうして石山合戦が幕を開ける。
石山本願寺が立地していた大坂は、瀬戸内海と畿内をつなぐ流通の要衝であった。大坂湾を掌握することなく天下統一は成し遂げられない——これが信長の基本認識であり、石山本願寺との対立は地理的宿命でもあった。
顕如の決起は、浅井・朝倉・武田・上杉氏ら反信長勢力との連携を念頭に置いていた。元亀三年(1572年)には武田信玄が三方ヶ原(現浜松市)で徳川家康を撃破し、信長包囲網はこの時期に最も強固となった。
石山本願寺は単独の宗教勢力ではなく、反信長連合の一翼を担う軍事拠点として機能した。門徒の動員力は他の戦国大名を圧倒しており、信長が十年以上を費やした理由はここにある。
元亀二年(1571年)の焼き討ちを理解するには、延暦寺と信長の関係が急速に悪化した過程を追う必要がある。浅井・朝倉連合軍が姉川の戦い(元亀元年・1570年)で敗れると、両氏は比叡山に籠って延暦寺の庇護を求めた。
信長は延暦寺に対し、浅井・朝倉の残党を引き渡すよう要求した。これに対し延暦寺側は要求を拒絶するとともに、浅井・朝倉方への支援を継続した。この対応は信長にとって「天下の公儀に抗する行為」であり、単なる宗教問題ではなく政治的叛逆と捉えられた蓋然性が高い。
元亀二年(1571年)九月十二日(新暦十月三日)、信長は三万の大軍を率いて比叡山に侵攻した。東塔・西塔・横川の各堂塔が焼かれ、根本中堂をはじめとする多数の建造物が灰燼に帰した。死者の数については諸説あるが、『信長公記』は山内に居た「老若男女を選ばず」に手をかけたと記録する。
現在の延暦寺(東塔)の建造物の多くは、焼き討ち後に豊臣秀吉・徳川家康らの支援によって再建されたものである。創建当時の建造物はほぼ現存しないという事実は、焼き討ちの徹底した破壊力を示している。
「仏敵」批判の意味——信長は本当に反仏教だったのか
焼き討ちを受けて、顕如以下の仏教勢力は信長を「仏法の怨敵」と呼んだ。この言葉は信長が仏教そのものを否定したという印象を後世に刷り込んでいるが、断じるのは早計である。
信長は安土城址内に**惣見寺(そうけんじ)**を建立しており、摠見寺(安土城内)として現在も遺構が確認できる。信長は自らを「神仏の権威の上に立つ存在」として演出したという解釈(立花京子説等)があるが、仏教の廃絶を図った証拠はない。打撃を与えた対象は「武装した寺社勢力としての延暦寺・本願寺」であり、仏法一般ではなかったと記録は示している。
天正四年(1576年)、毛利水軍が兵糧と武器を積んで石山本願寺に補給することに成功し(第一次木津川口の戦い)、信長包囲は一時的に緩んだ。信長はこれに対応するため鉄甲船(てっこうせん)の建造を命じたと伝わる。
天正六年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、この鉄甲船が活躍して毛利水軍を壊滅的に打ち破ったとされる。ただし、鉄甲船の実態については史料によって記述が異なり——『信長公記』は「くさり」で装甲したと記すが、全体を鉄板で覆った巨艦だったかどうかについては、現在も歴史家の間で議論が続いている。
天正七年(1579年)から信長軍の包囲は一段と強化された。補給路を断たれ、援軍の見込みも薄れた顕如は、天正八年(1580年)三月、正親町天皇の勅命を仲介として信長との講和に応じた。
顕如は石山本願寺を明け渡して退去。長子・教如(きょうにょ)(1558〜1614年)は抗戦継続を主張して父と対立し、同年八月まで籠城を続けたが、最終的に降伏した。本願寺が二派(大谷派・本願寺派)に分裂する遠因は、この父子対立に求められる蓋然性が高い。
元亀二年(1571年)の延暦寺焼き討ちから五年後、信長は琵琶湖畔の安土山に安土城の建設を開始した。地下一階地上六階の天主は、当時の日本建築としては前例のない高層建造物であった。
安土城は単なる防衛拠点ではなく、信長の権威を可視化する政治的装置でもあった。天主内部には仏教・道教・儒教の図像が混在した壁画が描かれたと伝わり、いかなる特定宗派にも属さない超越的権威の演出であったと解釈されている。
安土城址の城郭内に建立された摠見寺は、天正七年(1579年)頃に信長が創建した臨済宗の寺院である。信長が自らの城郭内に寺院を建てたという事実は、「信長=反仏教」という単純な図式を否定する根拠の一つとなっている。
天正十年(1582年)六月の本能寺の変で信長が斃れると、羽柴秀吉は大徳寺において大規模な追善法要を主催した。秀吉は大徳寺に総見院を建立して信長の位牌と木像を安置し、「信長の喪主」として政治的正統性を示した。
大徳寺と信長の関係は生前から存在した。天正二年(1574年)、信長は大徳寺に大灯籠(山門の金毛閣)の建設費を寄進したと伝わる。大徳寺は信長にとって、反体制的な延暦寺・本願寺と異なり、協調可能な宗教勢力として位置づけられていた可能性が高い。
信長の対寺社政策を年表として整理すると、破壊と温存の両面が明確になる。
信長が攻撃した対象に一貫しているのは、武装した宗教勢力あるいは反信長連合と結んだ宗教勢力であるという点だ。協調的な宗教施設(大徳寺・高野山等)は概して温存された。
宣教師ルイス・フロイスの記録(『日本史』)は、信長が「神仏の偶像を一切崇拝せず、ただ自然(天)のみを信じると公言した」と伝える。この記述を根拠に「信長は無神論者に近い」という解釈もある。ただし、フロイスの記録はキリスト教への好意を見せた信長を最大限に称揚する意図を持つため、字義通りに受け取るのは早計である。
蓋然性が高いのは、信長が既存宗教勢力の制度的・軍事的特権を否定しようとした政治家であったという解釈であり、仏教の教義そのものを否定しようとした証拠はほぼない。
信長の対寺社政策に関連するスポットを巡る際は、焼き討ちと再建の時系列を意識すると理解が深まる。
延暦寺(東塔)の根本中堂は元亀二年(1571年)の焼き討ちで焼失し、現在の建造物は江戸時代前期の再建である。現存する国宝・重要文化財の多くは再建期のものであり、信長以前の建物はほぼ残っていない。比叡山は京都市内から叡山電鉄・ケーブルカーでアクセスでき、東塔・西塔・横川の三エリアを回るには半日以上を要する。
安土城址は滋賀県近江八幡市に位置し、JR琵琶湖線・安土駅から徒歩二十分ほど。天主台からは琵琶湖を一望でき、当時の壮大な城郭規模を地形から実感できる。摠見寺は城郭内に現存する臨済宗の寺院で、三重塔・仁王門が国の重要文化財に指定されている。
大徳寺の塔頭・総見院(信長の葬儀・位牌を奉安)は通常非公開だが、春・秋の特別公開時に参拝可能。本能寺(中京区)には信長公廟があり、境内で静かに参拝できる。
元亀二年(1571年)焼き討ちの対象。現存建造物は再建。
天正四年(1576年)信長が築いた天主。天下人の象徴。
安土城郭内に信長が建立した臨済宗寺院。重要文化財。
天正十年(1582年)信長が斃れた場所。信長公廟あり。
史料によって数字が大きく異なる。『信長公記』は具体的な死者数を記していないが、「老若男女を択ばず悉く追手にかけ首を切るべし」という命令が下されたと記録する。後の時代に書かれた史料には「数千人」「三千〜四千人」という数字も出てくるが、一次史料で確認できる数値は存在しない。規模については誇張の可能性があり、断定するのは早計である。
石山本願寺の抵抗力の根源は三点にある。第一に、一向宗門徒の圧倒的な結束力と動員力——加賀を百年支配した実績が示すように、宗教的求心力が軍事力に直結していた。第二に、毛利水軍による海上補給路——第一次木津川口の戦い(天正四年・1576年)以後、兵糧・武器の搬入が可能だった。第三に、反信長包囲網との連動——武田・上杉・浅井・朝倉との同時多方面での戦線維持が信長の兵力を分散させた。
元亀二年(1571年)当時、明智光秀は信長の重臣として比叡山攻撃に参加したと考えられている。『信長公記』は焼き討ちにおける将領の名を全て列挙してはいないが、当時光秀は信長配下の最前線の将であり、不参加であった可能性は低い。本能寺の変(天正十年・1582年)の動機の一つに「延暦寺焼き討ちへの関与による心理的葛藤」を見る説もあるが、史料的根拠は薄く、断定するのは早計である。
焼き討ちの約十二年後、天正十九年(1591年)に豊臣秀吉が復興を支援し、根本中堂等の再建が始まった。江戸時代には徳川家光(寛永年間・1624〜1644年)が根本中堂を大規模に再建し、現在の建造物の基礎が整えられた。1994年にはユネスコ世界遺産に登録され、日本仏教の母山としての地位を今日も保っている。