家康の遺体は久能山と日光どちらに埋葬されているのか
家康の遺体は元和二年(1616年)に久能山に葬られた。日光は一周忌後(元和三年・1617年)に「奥宮」として造営された神廟であり、遺体は移葬されていない。すなわち久能山東照宮が「本廟(肉体の所在地)」であり、日光東照宮は「神廟(神霊を祀る場)」という関係にある。両方に「家康が眠る」と説明される場合があるが、遺体の所在は久能山である。
日光東照宮の陽明門はなぜ「日暮の門」と呼ばれるのか
「見るべき彫刻が多く、眺めていると日が暮れる」ことから「日暮の門」と通称されると説明されることが多い。建立は寛永十三年(1636年)。508体の彫刻が施されており、中国・日本の古典説話・聖人・動物など多彩な図柄が組み合わされている。この名称の初出史料については確認が難しく、いつ頃から使われた呼称かについては断じるのが難しい。
慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦から将軍任官(慶長八年・1603年)まで約2年半の間があった。この期間に家康は豊臣氏との関係調整・大名統制の体制整備を進めた。将軍任官からわずか2年後(慶長十年・1605年)に秀忠へ将軍職を譲ったことは、征夷大将軍が世襲されるという前例を作るための意図的な行為であったと考えられる。