桶狭間の戦い——「奇跡の勝利」か、計算された奇襲か
永禄三年(1560年)五月十九日、尾張国有松付近の桶狭間において、織田信長が今川義元を討ち取った。この戦いは長く「劣勢の信長が今川の大軍を奇跡的に破った」と語られてきた。しかし現代の研究者は、この評価に修正を迫っている。
まず兵力差について。今川義元の軍勢は『信長公記』では「25,000余」と記されるが、現代の軍事史研究者の多くはこの数字を過大とみなし、実数は数千から1万程度であったとする説が有力である。一方の信長の軍は2,000〜3,000程度であったとされるため、劣勢であることには変わりないが、「25倍の差」という通俗的な説明は誇張を含む。
次に「奇襲」の性格について。信長が義元の本陣を直接狙って突撃したとする点は、『信長公記』(太田牛一著)に依拠している。一方、後世の軍記物は脚色が加えられている可能性があり、戦闘の実態を正確に再現することは困難である。「豪雨の中での奇襲」という劇的な描写が史実として定着しているが、その点でも史料間に差異がある。
いずれにせよ、今川義元が討死したこと、これによって今川の東海道支配が崩壊し、信長の勢力拡大の契機となったことは確実な史実である。