信玄が「最強」と称される根拠は、主に第四次川中島の戦いで上杉謙信と互角に戦ったこと、元亀三年(1572年)の三方ヶ原の戦いで徳川・織田連合軍を破ったことにある。しかし信玄は生涯にわたって上洛を果たせず、天下統一に近づいたとは言い難い。「最強」の評価は後世の軍記物や大河ドラマが作り上げたイメージを含んでおり、史料に基づく客観的評価とは区別する必要がある。
武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いはなぜ繰り返されたのか
川中島(現・長野市川中島地区)は信濃国の戦略的要衝であり、信玄は信濃掌握のためにこの地を制する必要があった。謙信は信濃の武将たちの要請を受けて介入を繰り返した。五次にわたる川中島の戦いは、どちらも決定的な勝利を得られないまま終わり、両者の均衡が続いた。
「心頭を滅却すれば火も亦涼し」という偈は、江戸時代以降に広く知られるようになった。快川が焼死したことは史実であるが、この言葉が実際に発せられたかどうかを証明する同時代の史料は確認されていない。禅の精神を体現した名言として後世に作られた可能性を含む伝承として扱うべきである。