747年(天平19年)、聖武天皇の勅命を受けた光明皇后が、父・藤原不比等の邸宅跡に創建した。正式名称を「法華滅罪之寺」といい、聖武天皇が諸国に設けた国分寺・国分尼寺制度において、日本全国の総国分尼寺として位置づけられた。本尊の十一面観音立像は奈良時代の作とされ、光明皇后の姿を写したと伝わる国宝の木彫像である。光明皇后は境内に「悲田院」「施薬院」を設け、貧者・病者の救済に当たり、自ら千人の垢を洗ったという伝説も残る。平安時代以降、たびたび兵火や火災に見舞われ、伽藍は衰退した。室町時代から戦国時代にかけて荒廃が進んだが、江戸時代初期に大和郡山藩主・本多氏らの支援を受けて再興が図られた。現在の本堂(…