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勝龍寺城
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勝龍寺城
創建
1339
種別
アクセス
JR長岡京駅から徒歩10分
京都府長岡京市勝竜寺13-1
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基本情報
創建 1339
687年目
概要
暦応2年(1339年)に細川頼春が築城した平城で、後に細川藤孝(幽斎)が大改修して近世城郭に整備した。天正6年(1578年)に明智光秀の娘・玉(細川ガラシャ)が細川忠興と婚礼を挙げた城として知られる。本能寺の変後には明智光秀が立て籠もった歴史的舞台でもある。現在は勝竜寺城公園として整備され、石垣や堀が復元されている。NHK大河ドラマのゆかりの地としても多くの歴史ファンが訪れる長岡京の戦国史跡。
由緒
勝龍寺城は暦応2年(1339年)、室町幕府方の武将・細川頼春によって築かれた平城を起源とする。南北朝期には南朝方との争いの舞台となり、戦略上重要な拠点として機能したとされる。戦国時代に入ると、永禄年間(1558〜1570年)に細川藤孝(幽斎)が城を大規模に改修し、石垣・土塁・堀を整備して近世城郭としての体裁を整えた。天正6年(1578年)には明智光秀の娘・玉(後の細川ガラシャ)が細川忠興と婚礼を挙げた舞台として知られ、城は華やかな歴史の一幕を飾った。天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた後、一時この城に立て籠もったが、脱出を図る途中に落命…
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明智光秀とのつながり
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の後、光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に大敗し、敗残の身でこの勝龍寺城に逃げ込んだ。翌3日の夜に城を脱出したが、落ち延びる途中の小栗栖(おぐるす)で土民に討たれたとされる。謀反からわずか13日間の「三日天下」の幕を閉じた場所。
織田信長とのつながり
天正6年(1578年)、信長配下の明智光秀の娘・玉(後の細川ガラシャ)が細川忠興とこの城で婚礼を挙げた。光秀と信長が深く結びついていた時代の証人であり、本能寺の変後には光秀の最後の拠点となった歴史的な城である。

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