本能寺の変(1582年)は、戦国時代最大の政変である。この一夜の謀反が、主君の仇を討った羽柴秀吉を天下人へと押し上げ、豊臣政権という新しい時代を切り開いた。本能寺から大徳寺まで——信長の死後わずか数ヶ月で完成した秀吉の政治的演出を、ゆかりの地とともに辿る。
天正10年(1582年)6月1日、羽柴秀吉は備中高松城(現・岡山県岡山市)の水攻めを続けていた。毛利方の武将・清水宗治が籠もる高松城は湖に浮かぶ孤城と化し、もはや落城は時間の問題であった。
一方、信長は京都の本能寺に宿泊していた。翌日に予定していた中国地方への出馬の前夜、護衛はわずか30名ほど。天下布武を成し遂げた自信か、あるいは敵なき安堵か——守りは薄かった。
1582年当時、信長は日本の大半を支配下に置き、残る抵抗勢力は西国の毛利氏と北陸の上杉氏くらいであった。その年の3月には武田氏も滅ぼし、岐阜城を拠点とした「天下布武」の夢はほぼ現実となっていた。しかし、その絶頂が悲劇の幕開けとなる。
6月2日(旧暦)未明、明智光秀は約1万3000の大軍を率いて桂川を越え、京都へ進軍した。「敵は本能寺にあり」——この言葉の真偽は別として、光秀の軍は夜明け前に本能寺を包囲した。
信長はわずか30名ほどの側近とともに宿泊しており、まともな防衛など不可能だった。「是非もなし」と言い放ったと伝わる信長は、炎上する本能寺の中で自刃、あるいは焼死した。享年49歳。
信長の長男・織田信忠は別の宿所(二条城周辺の二条御所)に宿泊していた。父の変報を受けたが手勢は少なく、奮戦の末に自刃した。信長・信忠の相次ぐ死は、織田家の権力の空白を一気に生み出した。
6月3日、秀吉のもとに変報が届いた。その行動の早さは驚異的だった。まず毛利氏との間で急遽和睦交渉を進め、包囲下に置いていた高松城の城主・清水宗治に切腹を求めて開城に応じた。宗治は舟上で辞世の句を詠み自刃——その潔い最期は後世まで語り継がれる。
6月6日頃、秀吉は全軍を率いて備中から畿内へ向けて反転。約200kmを12日間で踏破する中国大返しが始まった。一説には一日平均20km以上を行軍したとされ、炎天下の強行軍は兵士に極度の疲弊をもたらしたが、秀吉は米を沿道に事前に手配するなど補給にも目を配り、士気を維持した。
姫路城では一泊の休息ののち、蓄えた兵糧を兵士に分け与え、西国から集めた援軍とともに進軍を続けた。この用意周到さが秀吉の真骨頂だった。
中国大返しを「奇跡」たらしめた要素は複数ある。第一に情報速度——変報を受けてから全軍に伝達し、和睦交渉を完了させるまでの判断が電光石火であった。第二に兵站——200kmの行軍に必要な食糧・水・馬の飼料を事前に沿道に配置する手配が、すでに秘密裏に整えられていたとも言われる。第三に政治的計算——光秀を討つことが「主君の仇討ち」となり、自らを正統な後継者と位置づけられると見抜いていた。
天正10年6月13日、秀吉軍と光秀軍は山城国(現・京都府乙訓郡大山崎町)の山崎で激突した。天王山の麓を舞台に繰り広げられた「山崎の戦い」は、本能寺の変からわずか11日後の決戦であった。
兵力は秀吉方が約4万、光秀方が約1万5000。光秀は友軍の細川忠興・筒井順慶らに援軍を求めたが、いずれも動かなかった。変報が広がるにつれ「三日天下」の様相を呈し始めた光秀には、孤立無援の戦いが待っていた。
数で劣る光秀軍は短時間で壊滅した。光秀は近江への落ち延びを図るが、伏見の藪中(小栗栖付近とも)で落ち武者狩りの農民に槍で刺され、あるいは自刃したとも伝わる。享年55歳(異説あり)。「三日天下」とも「十三日天下」とも揶揄された光秀の天下は、こうして幕を閉じた。
6月27日、尾張の清洲城(現・愛知県清須市)で清洲会議が開かれた。柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉の四宿老が集まり、織田家の後継者を決める会議であった。
柴田勝家は信長の三男・信孝を推した。これに対し秀吉が推したのは、信忠の遺児である幼い三法師(後の織田秀信)だった。「信長の孫を後継者に」というこの一手は、勝家の主張を「織田家私物化」と印象づける巧妙な政治手法であった。秀吉の提案が通り、三法師が後継者に決定。秀吉は事実上の後見人として織田政権の中枢を握ることになった。
清洲会議の政治的勝利に続き、秀吉はさらなる一手を打つ。天正10年10月15日、京都の大徳寺で信長の大規模な追善法要を執り行った。
秀吉は大徳寺の塔頭として総見院を建立し、信長の木像と墓所を整えた。法要は京都の人々の目を引く盛大なものであり、秀吉が「信長の喪主にして真の後継者」であることを天下に示す政治的パフォーマンスでもあった。柴田勝家はこの法要に参加できなかった——北陸の雪に閉ざされていたためとも、秀吉に出し抜かれたためとも言われる。
大徳寺は現在も総見院をはじめ複数の塔頭が立ち並び、信長ゆかりの地として静かに歴史を伝えている。
翌天正11年(1583年)、勝家との武力対決が不可避となった。賤ヶ岳の戦い(現・滋賀県長浜市)で秀吉は勝家の軍を破り、勝家は越前北ノ庄城(現・福井市)に退いて自刃。これにより秀吉の織田家中での覇権は確立した。
本能寺の変ゆかりの地を巡る際は、以下の点に注意したい。現在の本能寺は、変後に豊臣秀吉の都市改造によって現在地(中京区寺町通)に移転している。変があった当時の本能寺の跡地は、現在地から少し離れた場所(元本能寺町付近)にある。本能寺の境内には信長の廟所「信長公廟」が設けられており、静かに参拝することができる。
大徳寺では塔頭・総見院が特別公開時期(春・秋)に限り一般公開される。非公開の塔頭も多いため、事前に公開情報を確認してから訪れることを勧める。
京都を起点に秀吉の足跡を辿るなら、本能寺→大徳寺(京都1日)→大坂城(翌日) の2泊3日コースがおすすめ。本能寺(中京区)で信長の廟所に手を合わせ、地下鉄で大徳寺へ。総見院の特別公開日であれば信長の木像と対面できる。翌日は大阪へ移動し、大坂城の天守閣から秀吉が見た天下の眺めを体感しよう。
現在の本能寺は、変後に豊臣秀吉の京都改造計画によって移転した場所にあります。変が起きた当時の本能寺跡地(元本能寺町)には碑が残っており、現在地から徒歩数分の場所で確認できます。現在の本能寺には境内に信長公廟があり、手を合わせることができます。
謀反の動機は「本能寺の変 四百年の孤独」とも称されるほど今も謎が多く、一説には信長による折檻・侮辱への憤怒(怨恨説)、別の説には朝廷や足利将軍家との連携(黒幕説)、さらには天下取りの野心そのもの(野望説)など複数の説が並立しています。単一の動機ではなく、複合的な要因が絡み合ったと考えるのが現在の歴史学の主流です。
大徳寺の塔頭・総見院は、通常は非公開ですが、毎年春(4月頃)と秋(10〜11月頃)の特別公開期間中に一般公開されます。公開時期は年によって異なるため、大徳寺公式サイトや京都市観光情報サイトで最新の情報を確認してから訪れてください。