鎌倉時代の武家において、死者を祀る法華堂・菩提寺・廟所の整備は単なる宗教的行為ではなく、権力の継続性を示す政治的装置であった。頼朝・義時・政子の三墓所が集中する西御門エリアは、その意味で鎌倉武家政権の「権力の聖地」としての機能を持っていた。
報国寺が足利氏の菩提寺として機能したことも、同じ文脈で理解できる。室町期に入り、鎌倉公方(足利氏)が鎌倉を支配する体制が成立する中、足利氏は既存の武家的聖地の近傍に自らの廟所を構えることで、前代(鎌倉幕府)との連続性を視覚的に示した。
寿福寺に眠る政子の五輪塔と報国寺の竹の庭は、時代の異なる二つの武家文化の痕跡として、一日で対比的に体験することができる。北条氏の末裔が失墜した後、足利氏が同じ空間に自らの廟所を構えるという重層的な歴史の痕跡こそが、鎌倉という都市の歴史的深さを示している。
鎌倉を訪れる多くの観光客が円覚寺・高徳院(大仏)を主目的とするが、頼朝の墓(法華堂跡)・義時の墓・政子の墓という三墓所の回廊は、鎌倉という都市の権力的本質に最も直接的に触れることができる場所である。五輪塔の前に立ち、承久の乱という歴史的転換を想像する行為こそが、史跡参拝の本義である。鎌倉の武家墓所群は、今も史跡として保護されており、歴史への問いを持つ参拝者を迎え続けている。