楠木正成とはどのような人物か——七生報国の意味と生涯
元弘の乱から建武の新政まで——鎌倉幕府を倒した武将
楠木正成は河内国(現・大阪府南部)の豪族として生まれた。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を宣言した元弘の乱に呼応し、赤坂城を拠点に挙兵した。翌年には金剛山の断崖に千早城を築いて籠城を続け、圧倒的劣勢の中でも幕府軍を撃退し続けた。
この籠城戦が幕府の主力を引きつけている間に各地で討幕運動が広がり、1333年に鎌倉幕府は滅亡した。建武の新政で後醍醐天皇から厚い信頼を受けた正成だが、足利尊氏の離反により情勢が一変。1336年には尊氏の大軍が京に迫り、九州から再上洛する事態となった。
「七生報国」とは何か——湊川での最期と忠臣の象徴になった理由
建武3年(1336年)5月、正成は後醍醐天皇に「尊氏との和議を結ぶべき」と進言したが容れられず、敗戦を覚悟しながら湊川(現・神戸市)で決戦に臨んだ。77騎の手勢で足利方の数万の大軍と戦い、重傷を負った正成は弟・正季と向き合い「汝、来世はいかなる者に生まれたいか」と問いかけた。正季が「七生まで人間に生まれ、朝敵を滅ぼしたい」と答え、二人は刺し違えて果てた。享年43歳。
「七生報国(しちしょうほうこく)」——七たび生まれ変わっても国に報いるというこの言葉は忠義の究極の表現として後世に伝わり、江戸時代には水戸藩主・徳川光圀が湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建立、明治5年(1872年)には明治天皇の勅命で湊川神社が創建された。