天正元年(1573年)ごろ、近江国・観音寺(現在の滋賀県長浜市)に立ち寄った木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、境内で茶を出した小姓・三成少年の機転に感じ入ったとされる。
三成はまず大きな茶碗にぬるめの茶をたっぷり注いだ。旅で渇いた人間にはまず量が必要だからだ。次に中くらいの茶碗に適温の茶を出し、最後に小さな茶碗に熱めの茶を一口分だけ点てた。喉が潤い、次第に精神が落ち着いてきた相手には、最後に風味を楽しむ余裕が生まれるはずだという読みである。
この「三献の茶」の逸話は後世の脚色も含むが、石田三成という人物の本質——相手の状況を瞬時に分析し、最適解を実行に移す合理的知性——を象徴している。秀吉は即座に三成を家臣に取り立て、やがて彼は豊臣政権最高の行政官へと成長した。
三成は永禄3年(1560年)、近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)に生まれた。父・正継は浅井氏の家臣であった。三成が秀吉に仕えたのは10代の頃とされ、その後、秀吉の奉行として各地の検地・普請・兵站を取り仕切り、着実に頭角を現した。
天正18年(1590年)の小田原征伐では石田三成が兵站全体の管理を担い、軍の補給を滞りなく行った。その功績により19万5000石の佐和山城主に封じられ、秀吉政権の五奉行のひとりとして豊臣政権の行政を主導した。