豊臣秀吉の宗教政策は、前代の信長に比べて一見寛容に見えるが、実態は宗教権威を政治的コントロール下に置く巧みな管理体制であった。秀吉は天正十六年(1588年)に「刀狩令」を発し、武装した農民・僧侶を解体した。寺社の寄進・修造を通じて宗教界との友好的関係を維持しながら、宗教的権威が政治的脅威となることを抑制した。
四天王寺への参詣と住吉大社への社領安堵は、秀吉の宗教政策の典型的な形であった。強制的な征服ではなく、既存の権威を取り込みながら自らの支配の正統性を補強するという手法は、秀吉が天下統一の過程で一貫して用いた政治的スタイルである。
大阪の史跡を巡る際には、この「権威の重層性」——古代(四天王寺・住吉大社)、戦国・安土桃山(豊臣大阪城)、江戸(徳川の再建城)——が一つの都市空間に積み重なっている事実に注意を払いたい。地層のように堆積した権力の痕跡を読み解くことが、大阪の史跡巡りの醍醐味である。
現在の大阪において豊臣の記憶は観光的な「英雄」として消費されがちであるが、大阪城の地下に眠る豊臣期の石垣と、それを完全に上書きした徳川期の石垣という「権力の地層」こそが、大阪という都市の歴史的本質を語る。敗者の痕跡を地下に封じ込めた勝者の論理を石垣から読むことが、大阪城訪問の史学的意義である。