この時期の家康による諸国遊覧は、単なる物見遊山ではなく、新たに支配下に収めた関東の地理・宗教的地形を把握する政治行動として理解すべきである。各地の有力寺社に朱印地を付与することで、宗教機関を幕藩体制の秩序に組み込む基盤を整備する作業が、この段階からすでに始まっていたとみる蓋然性が高い。
家康が龍華寺を訪れた際、随行の者が寺名を「龍源寺」と誤って奏上したとされる。これに対し家康は「龍は源より出でるとは縁起良し」と称賛し、寺領五石の朱印地を寄進したという縁起が伝わる。
この逸話については、一次史料(将軍家の公文書・朱印状の原本等)によって確定した事実であるとは断じられない。寺社縁起に類する類話は、江戸期に広く流布した朱印地付与の正当化装置として機能したものも多く、本件もそうした縁起的叙述の一形態として慎重に位置づける必要がある。
しかしながら、朱印地五石が江戸時代を通じて龍華寺に維持されたという事実自体は、寺領管理の記録と整合している。伝承の修辞的な部分(「縁起良し」という言辞)を史実として扱うことは避けるべきだが、朱印地付与という行政的事実については、否定する根拠も現時点では見当たらない。
家康が金沢を遊覧した背景には、彼が源頼朝を崇敬し、武家政権の正統な継承者として自己を位置づけようとした政治思想も関与していると考えられる。頼朝が鎌倉を本拠として東国支配を確立した歴史的モデルを意識したとき、金沢・六浦という、鎌倉幕府の湊として機能した地域は、象徴的な意味を帯びていた。龍華寺が頼朝とは直接の縁を持たないとしても、家康にとってこの地域自体が武家の聖地として意味を持っていた可能性は否定できない。